少し前の、紙の方の京都新聞、”ソフィア京都新聞文化会議”に掲載されていた、思想家の内田樹さんの記事です。
「無縁者の活動と天皇の歴史」
古代以来、列島各地に「無縁の場」が存在した。
無縁とは文字通り「縁が切れる」ことである。
ここに駆け込めば、世俗の有縁(夫婦、主従、貸借など)を断ち切って、人は自由になることができた。
それは飢える自由、横死する自由と背中合わせではあったが、自由に変わりはない。
寺社、山林、市庭(いちば)、道路、宿、河原などが無縁の場である。
そこを行き交う「無縁者」には、海民、鍛冶、楽人、遊女、陰陽師、医師、歌人、武士、博打打、巫女、勧心聖、説教師など多様な職業が含まれた。
ー中略ー
「『無縁』の場に対する支配権は、平安・鎌倉期には、天皇の手中に掌握される形をとっていた。多くの『職人』が供御人となっていった理由はそこにある。」(網野善彦『無縁・公界・楽』)
無縁者なしには経済活動も芸能活動も宗教活動も、聖たちの勧請による仏像造営や架橋などの事業も成立しなかった。
社会の内部には居場所がないが、無縁者抜きには社会が成り立たない。
無縁の人たちはそのような両義的な存在であり、その「身元保証人」の役を久しく天皇が担ってきたのである。
後醍醐天皇は討幕の戦いにおいて、呪法僧や異類異形の悪党ら無縁の徒輩を総動員した。無縁者が政治の表舞台に出た歴史上例外的な一瞬である。
だが、健武の新政が破綻するや、この「聖なる異人」たちは一転して、社会的差別の対象に変じた。
ー中略ー
私は別に歴史的トリヴィアを書いているわけではない。新天皇が学習院史学科に進学されたのが『無縁・公界・楽』の刊行年であったこと、後に網野が学習院で教鞭を執った時に徳仁親王が聴講されていたことを知ると、陛下の英国留学時の研究主題がテームズの水上交通、つまり「無縁の場とそこを行き交う人々」についての研究だったことが偶然とは思えないということを記しておきたかったのである。
私は大抵の事は、「偶然でしょ」で片付けるタイプですが(笑)、この記事の事は、残しておきたかったのである。(≧▽≦)
「無縁者」は、現代では通行証を持たずとも日本全国を行き来できるようになりましたが、現代の本当の「無縁者」は「心の無縁者」ではないのかなー?と思いました。
行き倒れて、亡くなる方も多かったことでしょう。弾き出された覚悟の末の、無縁者も多かったことでしょう。それでも、自由だった。
自分の身を立てる為に懸命になるしか、生き延びる道は無かったからこそ、自由だった。
現代の「心の無縁者」は、沢山の選択肢がありながら、とても不自由なように思います。
情報に翻弄され、自分で決めつけた価値観を「世の中」と称する。それはとても不自由な自由ではないでしょうか。
ネットの世界も、云わば「無縁の場」。
その時代の天皇が、「無縁の場とそこを行き交う人々」の研究をされていたことは、私にとってもとても興味深く、記しておきたかったのである(≧▽≦)。